
イソマグロに憧れるきっかけは、一枚の古写真との出会いだった。
当時、カナヅチだった自分は小さな魚すら満足に獲れず、その分、大物に憧れた。

その後、恐怖心の克服のためにフリーダイビングの世界へ。
今まさにこの一瞬における身体感覚に集中することで、深くリラックスする。
海を観察して魚を仕留めるスピアフィッシングとは海の見え方が全く異なり、すごく面白い。
マグロを仕留めるため、年の半分は国内外でフリーダイビングのトレーニングを行なっている。

大物を前にしても、実はほとんどの場合は銛を撃たない。
この時は、日没直前、突然数百匹のマグロに取り囲まれた。
何千回も潜った末に出会った、夢のような光景だ。
海原でのしばしの並走を、ただ楽しんだ。
このマグロ達は今頃どこにいるのだろう。

イソマグロを狙う場所は、
激しい潮流が複雑にぶつかり合って潮波(しおなみ)が立ち、
時に渦を巻く。
背丈ほどもある潮波に揉まれると、まともに呼吸ができないことも。
とても人間が生身で居ていい場所ではない。


執拗に付き纏うサメ。
ここでは、我々人間は最上位捕食者ではないことを思い知らされる。
カマスとガリザメのつがいに執拗に追いかけられたり、
手が届きそうなほど近くまでイタチザメに突き上げられる時、
脳が沸騰するかのような独特の感覚を覚える。


一日中マグロを探して潜り続けるも、成果は0。
一匹のマグロを見ることさえ、叶わなかった。
冷え切った身体に追い討ちをかける、突然のスコール。
現れては消えるマグロたち、目まぐるしく変化するダイナミックな海に翻弄される。
マグロ突きは、まるで感情のローラーコースターだ。

数百ものギンガメアジの群れに巻かれた。
僕の周りをぐるぐると泳ぎ回っては、ジロジロと観察してくる。
よく耳を澄ますと、”グルル”と鳴き合いコミュニケーションを取っていた。
「こいつ何者?」と話し合っていたのか、あるいは僕に話しかけていたのだろうか。
”グルル”と真似をしてみても、また”グルル”が帰ってくるだけだった。

激しい潮波をかき分け、潜っていく。
水深25mまで潜ると、およそ10m下の棚ではイソマグロが渦を巻いていた。
海があまりに暗く、怖くなってすぐに浮上した。

マグロ突きには、信頼できる道具が不可欠だ。
先人の知恵に自らの経験を盛り込み、道具はオリジナルになっていく。
この日、試作した道具を海でテストしたが、思わぬ不備が見つかった。
帰ったらすぐに作り直さないといけない。
こうした作業を重ねて、少しずつ銛が手に馴染んでくる。

西陽が差してきて、視界が効かなくなってきた。
そんな中マグロを探していると、予期せぬ出会いが。
バショウカジキ。
大きな背鰭を優雅になびかせる様は、まさに龍神だった。
仕留めたカジキを抱え、その美しい造形に思わず見入った。
潜り続けた先に、こんな素敵な出会いが待っていることもある。


時々、逃した魚が脳裏をぐるぐると泳ぎ、眠れなくなる。
だからこそ、何年も(文字通り)夢見てきた憧れの魚を腕に抱く時、叫ばずにはいられない。
疲れ切った身体に、大きなサワラの重さがズシリとのしかかった。
そして、何百回と潜り続けた先、
ようやく一匹に狙いを定め銛を撃った。

人力ではびくともしない大きなブイがいくつも、マグロに引きづられ沈んでいく。

水面で懸命の綱引き。
そして、15分後、ついに…

大きなマグロは、特定の条件が揃った時にだけ姿を現す。
そして、その条件は土地によって異なる。
だから、その土地に住み、その地の海が”読め”ねばならない。
何百回・何千回も潜り続け、その地の海やマグロと向き合い続け、ようやく一匹獲ることが出来た。
沢山のサメに巻かれながら突いたマグロを、水面まで引き上げる。
腹部に刻まれたゴッつい歯型は、サメのものか、はたまた他のマグロによるものか。
一体、海底ではどんなドラマが繰り広げられたのだろう。
。。。



銛を撃ち込み、海面まで引き上げた時のマグロの「目」が忘れられない。
大きな命を、今まさにこの手で終わらせようとしていることを強く実感する。
だからこそ仕留めた魚は、必ず自分の手で解体し、島の人と分けて食べると決めている。
ほとばしる大量の血、大きな内蔵や骨。
魚というより”ケモノ”を解体しているかのようだ。
命をいただくことを改めて実感する瞬間。
命懸けで仕留めた島の海が育んだ大物は、島の人々の命の糧になってゆく。


脳天を刺し、一撃で仕留めることができたマグロの肉は、いつもより状態が良かった。
より美味しく食べれることに、思わず笑顔。

魚突きの大切な技術は、偉大な先輩方から学んできた。
これは、師匠との遠征で仕留めた大きなカマスサワラ。
難しいパターンをモノにできたこと、そして師に成長した姿を見せることができた。
島のレジェンド漁師さんにも褒められて、思わず笑顔。