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“約束の地”

 

そこはとても深く、とても潮が速い。

 

島の沖合約2km、海面にわずかに顔を覗かせた一対の岩礁。

満潮時には潮が洗うその岩礁は、水深60mのどん深から急峻にそり立つ。

岩と岩の間には巨大な岩盤が横たわり、そのトップは水深35m。

島の岬の延長上にあり、潮汐に合わせ川の様な水流が複雑に入り組む。

島周りの海と外洋の連絡口だ。

“約束の地”のイメージはこんな感じ。

 

”巨大イソマグロは、魚突きのターゲットである”と言う衝撃の出会いから、すでに3年の月日が流れていた。

あれ以来、”憧れのあいつ”の影を探して全国を潜り回ってきたが、未だ、成果といえるものは一つとして上げることができずにいた。

相変わらず大きなマグロを突いた話は全く聞かない。

どんな場所にいるのか?どうやって突けばいいのか?そもそもこの国に、素潜りで狙える範疇に実在するのか?

何も情報がない、完全な0からのスタートだった。

旅路で出会うベテラン達が口を揃え、『もしでかいイソンボを見付けても撃つのはやめとけ。獲れやしねーから。』と言うのを聞いていたのもあり、半ば諦めかけてもいた。

 

そんな折、今では僕が”約束の地”と呼ぶ場所で、ある一匹の魚と出会った。

 


 

冬。

 

僕は、なんども通っているお気に入りの島に、同じ夢を追う友人とイソマグロを探しにきていた。

遠征も終盤に差し掛かったある日。

その日はあいにくの空模様で、沖から島を振り返ると、山々には鉛色の雲が重たく影を落としていた。

昼前からはやや強い北風が吹き始め、加えて時折スコールにも見舞われた。

どのポイントもうねりでぐわんぐわん揺れた。

 

早朝から”磯のダンプカー”を探し潜り続け、午後2時を回った頃。

 

厚さ5mmの両面スキン、オーダーメイドの暖かいウェットスーツを着ていたけれど、寒さとサラシの中でのハードな潜りで疲れが溜まっていた。

潜り終えて船に上がるなり、即座にデッキに横たわる。

15分程度のわずかなポイント移動の間でさえ、泥のように深く眠った。

雨と潮でバシャバシャになったデッキで失神していた僕らは、漁船の親方のがなり声で叩き起こされ、銛を片手に冷たい海へと飛び込んだ。

 

どんより青緑色に濁る海水。

あぁ、今すぐ帰りてぇ。と心の底から思った。

温かいシャワーを浴びて脳死したい…

頭はまだ眠っているようで、大きなあくびが出る。

 

ヒラアジの幼稚園児たちがロングフィンにじゃれつき始め、海の暗さに目が慣れてくる頃、霞の向こうに白いトレードマークがポツリポツリと見えだした。

 

やっと出会えたイソンボだ。

十匹前後の小さな群れが、規則正しく隊列を組んで泳いでいる。

ピンと左右に突き出た胸ビレも相まり、まるで飛行機の編隊を眺めているかのようだ。

 

濁っていて海底は見えない。

吸い込まれそうな深さと冷たい海の暗さに、思わずこわばる。

息を整え、目の前に集中する。

身体の深部の緊張が、吐く息に溶け込み体外へと抜け消えていく。

 

最大限深く息を吸い込み、スノーケルを口から外す。

大きな音を立てないようにそろりと腰を折り、目を閉じて暗い海へと静かに潜行する。

5m、10m…15m程まで来ただろうか。

 

目を開け、海底へと視線を向けた僕の視界に、大きな”何か”が映り込んできた。

 

で、でっか…

 

初めて目にする、身長サイズのイソマグロだった。


その姿に何度も何度も恋い焦がれ、全国を潜り歩いてきた。

ヤスを撃ち込む日を夢見て、全国を潜り歩いてきた。

 

…はず、だった。

 

目の前を泳ぐ、”憧れのそいつ”が放つ凄まじい圧力と存在感は、僕の身体を芯から強張らせた。

 

しかも…うーん、かなり深いぞ。

 

ボトム付近をゆったりと回遊するその巨躯は、自分よりさらに10mほども下にいる。

寒さと疲労に加え、濁ってどんより暗い海中、未経験の深さ。

それら全ては不安の洪水となって押し寄せ、僕の気持ちは音を立ててへし折れた。

 

こんな状況でこいつに撃ち込んだとて…その後に繰り広げられるであろう壮絶なファイトを想像しても、正直全くワクワクしない。

怖い。出来ることならこの場から逃げ出したいくらいに。

(余談だが、こんな感じでヤスを放つ前から魚に圧倒されたり、頭でごちゃごちゃ考えてしまう時、勝敗はすでに決していることが多い。)

 

でも気付けば、泳ぎ去る巨大な背中めがけ銛を放っていた。

スカっ…銛は放物線を描き、力なく沈んでいく。その魚が放つあまりの圧力に、ゴムもちゃんと引けなかった。なんて雑なショットだろう。

 

やっぱりダメか…という落胆。

…が1%。

この空間から立ち去る言い訳を見付け、ホッとする気持ちが99%。

放銛の水音に驚き、去りゆく弾丸を見送りながら、頭を上に浮上の体勢に入った。

あぁ、これで。

水面で待つ相方に『撃ったけど当たらなかったぜ』なんて言い訳ができるか…と考え出した、その時。

 

その巨体からは想像も付かない機敏さで180度ターン。

そいつが、一直線にこっちへ突進してきた。

 

え?

一瞬、時が止まる。

 

鋭い歯がビッシリと並んだ、凶悪そうな口をでっかく開けて。

 

え、

 

その勢いのまま、僕の周りを、まるで僕のことを品定めするかのように、大きな眼で睨みつけながらぐるりと旋回し、そいつは深い藍色の向こうに消えた。

  

プハッ。

水面でリカバリー呼吸をすると、肺の中が新鮮な空気で満たされた。

生きてる。

 

『どうだった?撃った?』と相方の声で我に返る。

『外しちゃったよ。』
たった今目の前で起こったことをうまく咀嚼できなかった僕は、そう答えるので精一杯。

悔しさよりも、とんでもない光景を目撃してしまった高揚感、そして、”ヤバい存在”と関わらず、無事海底から生還できた安堵からだろうか。

何だか力が抜けてしまって、水面に寝転び、空を仰ぐ。波が顔を洗う。頬をなでる空気がひやりと冷たい。

相変わらず鉛色の重たい空だ。

でも雲の切れ間から、ほんの少しだけ青空が覗いて見えた。


何年も何年も恋い焦がれ続けたはずの”あいつ”との衝撃的なファーストコンタクト。

それはあの日、画面越しの映像を見て思い描いていたような、エキサイティングで華々しいものでは決してなかった。

未知の深さを悠然と泳ぐ巨躯を前に、勝負の土俵にすら立つことが叶わなかった現実。

”あいつ”をヤスの射程に収めることすら、夢のまた夢だ。

今の自分には、これ以上何もできない。

その巨体が放つ威圧感、突きつけられた壁の高さは、僕の心をポキリとへし折るのに十分すぎるほどだった。

何より、ヤスを放った後に戻ってきて、こちらを威嚇するという魚らしからぬリアクション。

鋭い歯が幾重にも並んだ大きな口、傷だらけの風体、思慮深い知性を感じさせる一方で感情の全く読めない吸い込まれそうな巨大な黒い目。

『三年?今のおまえには百年はえぇよ。』と言われたかのようだった。

  

でも不思議なもんで。

宿に帰り、あったかいシャワーを浴びて。温かい食事を摂って。

しばらくすると、

『あの場所で、いつか”あいつ”と勝負がしたい』

という気持ちが湧いてきた。

一体何年かかるのかな。星空を眺めながら、ぼんやりとそう思った。